マスカーニ作曲の「カヴァレリア・ルスチカーナ」は、ヴェリズモ(現実主義)オペラの名作として名高いが、
個人的には、最初に見たオペラとして特に親しみを感じる。もっともこれは劇場で観たのではなく、50年も
前の話であるが、母校(兵庫県立芦屋高校)の文化祭で、学友が演じたものである。受験勉強の合間を縫って
練習に励み、公演にこぎつけた当時の出演者の努力には今でも敬意を払っている。さて今回の公演も通常の例
にならって、レオンカヴァッロ作曲の「道化師」との2本立て公演となったが、いずれもテノール歌手が素晴
らしく、名曲を堪能することができた。
まず、「カヴァレリア・ルスチカーナ」では、ルーマニア出身の
スティッラ・B・キス(T)が若々しい美声を駆使してトゥリッドゥを好演した。サントゥッツァを歌った、
エリザベッタ・フィオリッロ(MS)は、2001年に当劇場の「トロヴァトーレ」公演では、ジプシーの老婆
アズチェーナを好演したが、今回も声そのものは他を圧する迫力があったが、この役には声がやや重過ぎる感もあった。
ローラの坂本朱(MS)、アルフィオの青戸知(Br)は、声、舞台姿もよく適役であった。演出(グリシャ・アルフィオ)は
、正統的なもので質感のある石造りを模した構築物をうまく利用してドラマを進行させた。多数登場した群集
(合唱)の衣装もとりどりで、スタイルの良い女性が多く、目を楽しませてもらった。
一方、「道化師」では、当初出演予定だったセルゲイ・ラーリンの代役として、超大物
のジュゼッペ・ジャコミーニ(T)がカニオを歌ったが、64歳とは信じられないスピント
のきいた美声をホールいっぱいに響かせるとともに迫真の演技を見せ、聴衆の喝采を浴びた。ネッダを歌った
アルメニア出身のジュリエット・ガルスティア(S)は、柔らか味のある美声で容姿も良く、なかなか魅力的で
あったが、高音部の響きがやや硬かった。トニオを歌ったウィーン出身のゲオルグ・テイッヒ(Br)も幕開けの
有名な口上を見事に歌い、ペッペの吉田浩之(T)の軽やかな「セレナータ」も良かった。演出的には、骨格と
なる構築物は、「カヴァレリア」のものをそっくり流用したが、イルミネーションや小道具をうまく使い、
田舎の祭日の雰囲気がかなり良く出ていた。(2004.9.15)
「モーツアルト劇場」主催の貸劇場公演(中劇場)である。
「愛の女庭師」は、モーツアルトの「偽りの女庭師」のドイツ語版であるが、作曲者自身による一部改定があるとはいうものの、
ケッヘル番号(k196)も変わらず実質的には同じである。今公演のプログラムには、単に「日本初演」とうたわれていたが、
これはドイツ語版(今回は日本語公演)としてのことのようで、原曲(イタリア語)の「偽りの女庭師」は、今年の3月にも
上演(原語、昭和音楽芸術学院ホール)されている。この作品は、モーツアルトの少年時代(18歳)の作曲であり、
後期の名作に比肩できる程の作品ではないが、随所にモーツアルトらしい軽妙な旋律が流れ、なかなか楽しい作品である。
最近のオペラは、「字幕付原語上演」が大勢を占めているが、喜歌劇の場合には、やはり日本語上演の方が、
ストレートに楽しめる。原語が日本語のオペラでも違和感を拭えないものが多い(例えば、先日聴いた清水 脩作曲、谷川俊太郎台本による
「青空を射つ男」)なかで、高橋英郎の和訳は、いつもごく自然な日本語で音楽にも良くマッチしている。
歌手は、歌も演技もうまい人が多く、ドラマとしても大変楽しかった。まず、3人のソプラノ(赤星啓子、品田昭子、加藤千春)
が、いずれも適役で良かった。特に庭師サンドリーナ(実は公爵令嬢ヴィオランテ)を歌った赤星は、からだは小さいが豊麗な
美声を持つ一方、弱声のコントロールも見事で素晴らしかった。男声陣では、召使ナルド(実はロベルト)を歌った
宮本益光(Br)が、歌も演技も良かった。ベルフィオーレ伯爵を歌った布施雅也(T)は、まずまずであったが、
市長ドン・アンキーゼを歌った蔵田雅之(T)は、好色な市長を熱演したものの、高音が少々苦しそうであった。また、
青年ラミーロを歌った菅原章代(Ms)は、ズボン役としては声が少々優しすぎるように思えた。
一方、演出は、総体的にはなかなか面白かった。第一幕の舞台を見たときには、平面的でモノトーンに近い諸装置に少々失望し、
せめて植込みくらいは、もう少し緑っぽくしてほしいと思ったが、2幕、3幕を見るにいたって、黄色い平面を基調として
統一感を持たせた演出者の意図がわかった。シンメトリックに配置された壁面に隠されたドアが突然開いて歌手が
登場する意外性も面白かった。衣装は、なかなか豪華で目を楽しませてくれた。なお、小編成のオーケストラ
(指揮:大井剛史)は、柔らかい音を出し、歌とのバランスが良かった。(2004.10.25)
2004.11.11:「エレクトラ」
ギリシャの三大悲劇詩人の一人であるソフォクレスの悲劇に基づいてホフマンスタールが書いた「エレクトラ」は、
「エレクトラ・コンプレックス(娘が母を憎み、父を愛する感情)」という言葉の起源ともなった戯曲である。
オペラ「エレクトラ」は、R.シュトラウスが「サロメ」に次いで作曲した壮年期の力作であり、20世紀初頭のオペラ(楽劇)の話題作
の一つでもある。また、「バラの騎士」や「アラベッラ」等の名作を生んだホフマンスタールとの<黄金のコンビ>のスタートと
なった作品であるが、父を殺した母と共犯の情夫を娘とその弟が協力して殺すという余りにも暗い話であるためか、上演される
機会も少なく、筆者もビデオでは、リザネックやマルトンの名演を観たことがあるが、今回初めて実演に接した。拡張したピット一杯の強大なオーケストラの咆哮と歌の掛合いによるこの一幕
もののオペラは、交響詩の延長のようにも感じられた。
歌手は、主役級は、欧米で活躍する実力者で固められていたが、いずれも米国出身であるのは意外であった。エレクトラを歌った
ナディーヌ・セグンデは、この役やマクベス夫人を得意にしているドラマティック・ソプラノであり、さすがに見事にこの難役
を歌い演じた。気の優しい妹クリソテミスを歌ったナンシー・グスタフソン(S)、夫を殺した母クリテムネストラを歌ったカラン・
アームストロング(S)も役と声が良く一致し、好演であった。弟オレストを歌ったチェスター・パットン(Bs)も7月の「カルメン」
のエスカミーリォの時と違って適役であった。情夫エギストを歌ったリチャード・ブルナー(T)も出番は少ないが、力強い美声を響かせた。
今公演は総体的に高い水準ではあったが、オール日本人でも人選によっては、十分に対抗できそうだとも感じた。
一方、演出(ハンス=ペーター・レマン)的には、舞台が暗過ぎなかったのは良かったが、復讐が成功し、
狂喜乱舞の中でエレクトラが興奮のあまり突然死するというのが普通ラストシーンでだと思っていたが、今公演では手に持った斧で自害
しまった様に見えたのには驚かされた。
舞台装置は、かなり抽象化された設定であったが、ラストシーンを除いて、重厚さに欠けやや違和感を持った。特に床面は、
板が階段状に敷き詰られていたが、さながら工事現場の様であった。ウルフ・シルマー指揮下の東フィルもなかなかの好演であった。(2004.11.13)
「東京オペラプロデュース」主催、文化庁等の助成によって「貸劇場公演」として中劇場で上演されたこのオペラは、
ロッシーニが19歳の時(1811年)に作曲したオペラ・ブッファであるが、台本に公序良俗に反する等の問題があった
こともあり、本場のイタリアでも1825年の再演後140年間も上演されなかったという珍しいオペラである。英国でも昨年秋に
Garsington Operaでやっと初演された(右の写真)ようだ。今公演のプログラムにも
「本格舞台日本初演」と謳われていた。「東京オペラプロデュース」
は、「東京室内歌劇場」とともに、多くの日本初演オペラを定期公演で上演しており、我々オペラファンにとっては、
大変ありがたい存在である。お陰で、ここ3-4年の間にR.シュトラウスの「無口な女」、「カプリッチョ」、
ヴェルディの「王国の一日」、「二人のフォスカリ」、ドニゼッティの「当惑した家庭教師」等の貴重な実演に
接することが出来た。
このオペラのストーリーは、主役のエルネスティーナが「実は、去勢された男」というとてつもない誤解に
まつわるドタバタ劇である。今公演は、字幕付の原語上演であったため、言葉の面白さが伝わり難い面もあり、
歌手にも多少の不満はあったが、ロッシーニらしい軽妙な音楽の楽しさをそれなりに味わうことが出来た。
なお、舞台が明るかったこともあり、字幕の輝度が不十分で暗く読みづらかった。
歌手は、ガンベロットを歌った杉野正隆(B)は、何時ものごとく美声を活かし、存在感を示し、婚約者
ブラリッキオ役の細岡雅哉(B)は歌も演技もなかなかの好演であった。
ガンベロットの娘エルネスティーナを歌った宮本彩音(S)は、初めて聴いたが、良く通る大変魅力的な声を持っており、容姿も良く、プリマ
としての素質十分におもえるが、癖のあるビブラートがかなり気になった。エルマンノ役の三村卓也(T)、フロンティーノ役の倉石真(T)もまずまずの好演であった。
一方、舞台は、中心となるガンベロット邸正面がなかなか良く出来ており、オーソドックスな演出とあいまって、それらしい雰囲気に浸ることが出来た。
(2005.1.17)
アルバン・ベルク作曲の「ルル」の実演を観るのは、今回が3度目であったが、最初に観た1970年の日生劇場での ベルリン・ドイツ・オペラ公演(日本初演)の印象が大変強かったため、個人的にはその後33年間も実演を見る機会がなかった にもかかわらず、難解ながら傑作というイメージを抱き続けていてきた。二期会による2003年11月の日生劇場開場40周年記念公演 (飯田みち代主演)もなかなか良かったが、最初に聴いた衝撃はなかった。 今公演は、公演間近になって国立劇場からアルヴィ役の変更(永田峰雄から高橋淳へ)とともに、「高い水準を維持した 公演を皆様に観劇いただくために」、当初の3幕版から2幕版に変更するという異例の通知があり、また、近年やや不調気味の 佐藤しのぶが主演するということで、若干の不安も無くはなかったが、むしろ彼女の難役への果敢な挑戦に 期待を持って出かけた。 今公演は、ドイツ語圏からの2人を除いて、国立劇場としては、珍しく日本人歌手で固められたが、脇役にも実力者を揃え、 水準の高いものであった。まず、主役のルルは、セクシーな姿態をとる場面が多く、役者としても大変であるが、佐藤しのぶ(S)は、 高音部の声の硬さは多少気になるものの、声は良く出ており、まずまずの好演であった。 同性愛の相手ゲシュヴィッツ伯爵令嬢を歌った小山由美(MS)も存在感を示した。シェーン博士/切り裂きジャックの2役は、 ウイーン出身のクラウディオ・オテッリが歌ったが、声も容姿も堂々としており、好演であった。アルバ役の 高橋淳(T)は、主要な役では初めて聞いたが、力強い美声を駆使してやはり好演であった。 脇役では、力業師役の妻屋秀和(Bs)の重厚な美声が光っており、早口のドイツ語も見事であった。劇場の衣装係/ギムナジウムの学生 役の山下牧子(MS)、シゴルギ役のハルムート・ヴェルカー(Br)も良かった。 一方、演出のデヴィッド・パウントニーは、ルルを「超社会的」で「神話の登場人物のような存在」というコンセプト で表現しようとしたようだが、その意図が十分に読み取れず、特に第一幕などでは、戸惑いを感じた。画家とルルの あの程度の濡れ場を目撃してルルの夫(医事顧問官)が、ショック死するのも不自然に感じた。 また、画家のアトリエ、サロン、劇場の衣装部屋等の転換が舞台の緩やかな横移動で行われたが、壁面等に暗示的な動物 の剥製らしきものを這わせたり、工夫の跡も見られたが、舞台近くの左斜めから見たせいもあり、総体的に視覚的な楽しさ に乏しかった。(2005.2.11)
ドイツを中心に活躍している作曲者の久保摩耶子が、1996年に発表したオペラ第一作の
「羅生門」が好評であったこともあり、このオペラの日本語版が2002年11月には日生劇場で日本初演された。
このオペラは、なかなかの力作であったが、たまたまバックステージ・ツアーに参加したこともあり、
強く印象に残っている。
今公演の「おさん」は、中公文庫のマンガ本(写真)にまでなっている近松門左衛門の名作浄瑠璃「心中天
網島(しんじゅうてんのあみじま)」のストーリーを作曲者自身が現代日本に移して台本化し、人類普遍の
テーマ「愛」を追求したものである。オペラとしては、勿論、世界初演である。
久保の台本では、主役であるおさん、小春、治平(冶兵衛)の3人の名前を残した他は、すっかり現代社会
に置き換えられている。言葉数の少ない「オペラ」という制約の中なのでやむを得ないとは思うが、ストーリ
ー展開にやや飛躍があり、プログラムの解説を読んではじめて納得できる場面もあった。なお、プログラムに
台本が添付されていたのは、ありがたかった。
2005.3.3:「ザザ」
小劇場オペラ第14弾として、レオンカヴァッロ作曲の「ザザ」が上演された。作曲者のレオンカヴァッロは、
プッチーニ、マスカーニやジョルダーノなどと同時代に活躍した作曲家で、プッチーニが「ボエーム」を作曲した
翌年(1897)には、同名のオペラを発表しており、「ザザ」は、「トスカ」と同年(1900)に初演されている。この「ザザ」は、
CDが発売されているようだが、これまでに聴いたことがなかったので、今回いきなり実演に接することとなった。
今公演では、3時間程度の原曲を2/3程度に短縮したビアンキ版で上演された。カフェ・アルカザールの女優ザザが
偶発的なきっかけで、妻子ある常連客のミーリオと恋に落ち、最後には別れてしまうという現代でも身近にありそうな
ストーリーであるが、ドラマとしての盛り上がりもあり、「ボーエム」や「トスカ」のようなポピュラーなアリアはないが、
なかなか面白いオペラであった。特に、第三幕終盤でミーリオの小さな娘の弾くピアノに乗せてザザが歌うアリアは、大変印象的であった。
今公演は、昨年2月の「外套」の場合同様、オーケストラを舞台奥に配置し、やや変形の舞台の一部は前方右の座席に食い
込むように設定された。歌手にとっては、指揮者が見えず、歌い難い場面もあったこととは思うが、観客にとっては、歌手を
いっそう身近に感じることができた。舞台装置は、比較的簡素なものであったが、
開演前のオーケストラのチューニングが始まるまでの数分間、まだ客席のざわめきが残る内に、「演出」としての舞台裏の喧騒
が演じられたのは意表をつく面白い工夫であり、ごく自然に第一幕(劇場の舞台裏)に引き込まれた。
歌手陣は、若手の実力者で固められ、皆好演であった。ザザを歌った森田雅美(S)は、はじめて聴いたが、豊かな美声をもち、
女優らしくスタイルも良くなかなかの好演であった。ミーリオを歌った樋口達哉(T)は、何度か聴いているが、小劇場という
こともあったが、力強さも十分であった。ザザの元恋人カスカール役の今尾滋(B)、劇場支配人クールトワ役の清水
広樹(B)等の脇役も充実していた。(2005.3.5)
2005.3.4:「魔笛」
欧米の主要オペラハウスでは、ほぼ毎日オペラ公演があるので、一週間滞在
すれば3〜4演目のオペラを鑑賞することができる。一方、わが国の新国立
劇場では、主催公演は、月に1〜2演目、バレー公演を入れても公演日は月
に10日前後しかない現状はさびしい限りである。これまでは、「貸し劇場
公演」も少なく(特に”オペラ劇場”)、立派な設備が残念ながら十分に活
用されていなかった。一週間に2〜3演目の公演があれば、都内のビジネス
/観光客はもとより、国内各地からの「オペラツアー」も成立し、観客動員に
おける相乗効果が期待できるのではなかろうか。
2005.3.11(金):「ドン・ジョヴァンニ」
新国立劇場オペラ研修所恒例の研修公演として中劇場で「ドン・ジョヴァンニ」が上演された。
この研修所の卒業生には、なかなか有望な歌手が多く、これまでにも、林美智子、山本美樹、
井上ゆかり、増田弥生などが国内外のコンクールで優勝あるいは入賞している。
今回は、第5期生、6期生及び7期生に賛助出演者を加えて、トリップル・キャストで公演が
行われたが、有望なバリトンが多い中で、個人的に特に気に入っている与那城敬がタイトルロ
ールを歌う日(2日目)を選んで出かけた。第5期生の与那城敬(B)は、持ち前の艶のある豊
かな美声と優れた歌唱力を生かし、モーツアルトが想定したといわれる若々しいドン・ジョヴァ
ンニを期待通り見事に歌い、演じた。今後の大舞台での活躍が期待される。エルヴィーラを歌
った元ミス・ユニバース日本代表の経歴を持つ第6期生の小川里美(MS)は、容姿はさすがに
素晴らしいが、声の響きが今一に感じた。やはり林美智子(初日)で聴いてみたかった。
なお、小川は、公演プログラムでは昨年も今年も、第1回「東京音楽コンクール」第3位入賞と紹介
されているが、これは「東京音楽大学コンクール」の間違いだと思われる。東京音楽コンクール
第3位は、富岡明子のはずである。同じ第6期生の岡田尚之(T)は、きれいな声でドン
・オッターヴィオを無難に歌った。ツェルリーナを歌った第7期生の小柄な鈴木愛美(S)は、
容姿も声も可愛かったが、声量も多少物足りなかった。マゼットを歌ったやはり第7期生の河野
知久(B)は、京大で宇宙物理学を専攻したという変り種であるが、立派な声を持っており、今後の
成長を見守りたい。
賛助出演のデイヴィッド・ペダード(レポレッロ)、吉田恭子(ドンナ・アンナ)および長谷川顯
(騎士長)の3人は、実力派の第一線歌手だけにそれぞれ存在感を示した。
一方、安い入場料の研修公演であったため止むを得ないが、舞台装置はほとんどなく、各種の幕を
利用して情景設定が行われた。必ずしも目新しい手法ではないが、中央の半円周状の幕の裏側から
人物の影を映したりして変化をつけたが、やはり少々殺風景であった。なお、第一幕の冒頭、
ドン・ジョヴァンニが騎士長と剣で渡り合って殺す場面の演出(後ろから組付き、剣でのどを掻き切る)は、
残酷過ぎ、いただけない。(2005.3.15)
2005.3.21:「コジ・ファン・トゥッテ」
「コジ・ファン・トゥッテ」は,モーツァルトの「4大オペラ」の一つでありながら、繰り返し上演された「三大オペラ」
と異なり、新国立劇場の主催公演としては、今回が初めてである(貸し劇場公演としては、2001.10.13の
モーツァルト劇場主催の中劇場公演がある。)。ベートーベンが嫌悪感をおぼえたとかいう荒唐無稽なストーリーは別として、
アリア、重唱などどこをとってもとにかく音楽がすばらしい。個人的には、「オペラ・ベスト10」を選ぶとすれば
是非入れたいと思っている名曲である。
今公演のコルネリア・レプシュレーガーの演出では、原作の結末(「姉妹の恋人達が変装して相手を取替え、操を試すドタバタの
末、2組の恋人たちがもとの鞘に納まって大団円となる」)を変え、「2組の恋人達は
もとの鞘に納まらず、一組の新しいカップル(フィオルディリージとフェランド)が生まれる。」という現実的ともいえる
ストーリー展開にしたのは、意外ではあったが面白かった。彼女が、観客に伝えたかったのは、「感情、エロスの気持ちを押さえ込むべきではなく、
理性は大切だが、もっと感情に、エモーションに従って生きるべき」とのことのようである。室内と庭園との場面変換も、
回り舞台を利用してスムーズに行われた。
一方、歌手は欧米で活躍する実力派の歌手を集め、全体のバランスもよかった。フィオルディリージを歌ったフランス出身の
ヴェロニク・ジャンス(S)は線の細さを感じさせる場面もあったが、声も良く伸び感情豊かに歌い上げた。ドラベッラを
歌ったスペイン出身のナンシー・ファビオラ・エッレラ(Ms)は、声量豊かな美声を響かせた。
また、デスピーナは中島彰子(S)が歌ったが、2003年10月の「フィガロ」のスザンナの場合同様、歌も芝居も活き活きと
しており、ドラマを見事に盛り上げた。往年の伊藤京子の名演を思い出した。ドン・アルフォンゾを歌った貫禄十分の
ベルント・ヴァイクル(Br)、グリエルモを歌ったルドルフ・ローゼン(Br)も豊かな美声を駆使して好演であった。
フェランド役は、米国生まれでメットで活躍中の若手のグレゴリー・トゥレイ(T)が、病気でキャンセルとなったジョン・健・ヌッツォ
の代役を見事につとめた。それにしてもヌッツォのキャンセルの多さは有名であるが困ったものだ。
筆者も昨年の秋に続いて今回で2回目のキャンセルに会ってしまった。
なお、新国立劇場の公演プログラムは、いつも充実しているが、今回もこのオペラに関する「成立の謎」、「毀誉褒貶」、
「磁気療法の祖・メスマーの足跡」などの読み物が特に面白かった。(2005.3.23)
2005.4.7:「フィガロの結婚」
今公演の演出は、前回(2003.10)同様アンドレアス・ホモキであった。前回の公演は
、確かに斬新で、舞台も幾何学的な美しさがあり、玄人筋には好評であったようだが、白黒
のモノトーンの舞台は視覚的な楽しさに乏しく、再度見たいとは思わなかったが、主
役級の歌手がすっかり変わっていたので、やはり出かけることとした。今回は、天井
桟敷(4階正面)で観たが、1,2の脇役を除いて歌手がすばらしく、純粋に音楽と
して名曲を楽しむことができた。タイトルロールのフィガロは、イタリア
出身のマウリツィオ・ムラーロ(Bs)が歌ったが、バス歌手だけに重量感たっぷりと
いうより威圧感さえ感じさせたが、すばらしい声を堪能した。アルマヴィーヴァ伯爵は、
昨年5月の新国立劇場で「マクベス」のタイトルロールを好演したミュンヘン生まれの
名歌手ヴォルフガング・ブレンデル(Br)が歌ったが、この役を250回以上も歌ってい
るというだけにさすがに風格十分の名演であった。伯爵夫人を歌った米国出身のエミ
リー・マギー(S)は、欧米では主としてワグナーものを歌っているようだが、艶やかな大変魅力
的な声を持ち、声量も豊かでなかなかの好演であった。スザンナを歌った松原有奈(S)は、はじめて聴いたが、
声も容姿も良く、やはりなかなかの好演であった。ケルビーノは、南ア出身のミシェル
・プリートが歌った。ズボン役なので問題ではないが、やや男っぽい声ながら見事な
歌唱を披露した。脇役では、バルトロの妻屋秀和(Bs)とオペラの舞台でははじめて聴
いたマルチェッリーナの竹本節子(Ms)のコンビが素晴らしい声を聞かせてくれた。
また、前回も同役を歌ったバルバリーナの中村恵理(S)も良かった。(2005.4.10)
2005.6.2:「フィデリオ」
ベートーヴェン唯一のオペラ「フィデリオ」は、政治犯として囚われている夫を妻が男装
して地下牢にまで潜入し、救出するといういかにもベートー
ヴェン好みの堅いストリーのオペラである。専門的には、様式の不統一(ジングシュピ
ールとオラトリオの混在)などが指摘されているが、ベートーベンが初演以来何度も手を
加えているだけに、ダイナミックなオーケ
ストレーションも素晴らしく、単独でコンサートでも歌われる有名なアリアや優れた
合唱曲もあるなかなかの名曲である。新国立劇場では、開場後8年もたってやっと上演の
運びとなったのは、遅きに失した感がある。
さて、今公演(指揮:ミヒャエル・ボーダー)は、歌手の中核となるレオノーレとフロレスタン役が特に素晴らしく、
ビデオで観た幾種かの名演(ベーム/ギネス・ジョーンズ等)に匹敵する感動的な公演であったが、
予想外に客席に空席が目立ったのは、意外であり、残念でもあった。
まず、歌手では、レオノーレ(フィデリオ)を歌ったオーストリア出身のガブリエーレ・フォンタナ
(S)は、丸みのある強靭な声で、リリックからドラマティックな声を要求されるこの難役を
見事に歌い演じた。フロレスタンを歌った米国出身のトーマス・
モーザー(T)も、強靭な美声と豊富なキャリアを活かした歌唱と演技は、素晴らしかった。
刑務所長ドン・ピツァロ役のペテリス・エグリーティス(BB)、牢番ロッコ役のハンス・チャー(Bs),
大臣ドン・フェルナンド役の河野克典(B)、ヤッキーノ役の吉田浩之(T)、マルツェリーネ役の水嶋育(S)
は、前述の2人に押され気味ではあったが、適材適所でそれぞれ好演であった。また、合唱(三澤洋史指揮下の
新国合唱団)の響きも素晴らしかった。なお、3階奥のモニター室から赤いペンライトで合唱の指揮
が行われていることを今回はじめて知った。
一方、円柱形の巨大な石造りの塔を中心に据え、これを引き上げると地下牢が現れるという舞台は、
シンプルながら重厚で、幾何学的な美しさがあった。牢獄が主舞台なので、このオペラは
全体的に暗くなるのはやむを得ないが、第九交響曲(合唱付)の終楽章を彷彿させる第二幕終盤のオラトリオ
的な場面では、通常は群集(あるいは、開放された政治犯とその妻達)が現れるが、今公演では
新郎新婦姿の数十組の男女が現れ、また、レオノーレが群集の面前で看守の制服を脱ぎ、真赤な
スーツ姿に戻るという演出は、やや現実離れしてはいるが、新鮮で効果的でもあった。(2005.6.4)
2005.7.5:「鼻」
来日6度目というロシア国立モスクワ室内歌劇場による「ドン・ジョヴァンニ」、「魔笛」及び「鼻」
の3演目の公演(貸し劇場公演)が7月上旬,中劇場において続けて行われた。前評判も高く、全部見
たいとも思ったが、「予算」等の制約もあったので、同劇場の看板演目にもなっているショスタコーヴィチのオペラ第一作
である「鼻」に絞って出かけた。
このオペラは、ゴーゴリの原作を作曲者を含めた4人が台本化したものであるが、主人公の「鼻」が突然失われ、
人格を持って勝手に行動し、最後には無事戻るという珍妙なストーリーである。はじめて観るオペラだったが、チラシ広告
などからの予備知識では、以前に観た岩河智子の「唱歌の学校(2001/3:東京文化会館)」
やサリヴァンの「ミカド(2003/3:東京芸術劇場)」のような爆笑オペラかと思ったが、字幕付の原語(ロシア語)公演であった
こともあり、笑いを誘う場面は意外に少なく、ロシア官吏等への風刺に富んだ、ドラマ的要素の強いオペラであった。なお、
一見アドリブにも聞こえる台詞もすべてゴーゴリの諸作品から引用しているようであった。
肝腎の音楽は、ショスタコーヴィチが最も前衛的であった時代の作品であるが、「美しい歌」はほとんど見当たらないが、
管楽器や打楽器を多用し、部厚くは無いが先鋭でリズミカルなオーケストレーションが面白かった。また、手紙のやりとり
を同時進行にしたりしているため、ドラマの進行もスピーディである。
今公演の歌手は、主人公(コワリョーフ)役のエドゥアルド・アキーモフ(B)ほか中核となる歌手は、歌も演技もなかなか
立派であったが、数多い脇役の中には、声の響の悪い人(鼻役のテノール他)も2〜3見受けられた。また、合唱も響も
良くなかった。
一方、舞台は、室内オペラでもあり、簡素であったが、衣装はなかなか凝ったものであった。
(2005.7.6)
2005.7.6:「蝶々夫人」
1999年12月の新国立劇場での公演以来、久しぶりに「バタフライ」を観た。
このオペラは、情緒たっぷりで涙を誘う良くできた物語ではあるが、
非現実的な虚構の話と思い込んでいた。しかし、1,2年前のTV番組で長崎では
当時(明治初期)契約結婚的な事実があったことを知り、多少見方が変わった。
栗山民也の演出は、2000年12月の「夕鶴」の場合同様、極端に簡素化した舞台であり、
長崎の港が見える坂の上という本来の設定とはかけ離れており、白っぽい曲面の壁にそって
無機的なコンクリの階段があり、その下に蝶々さんの新居が斜に設定された。落葉があるだけの庭に面した和室も段差こそあるが
庭とつながり、畳も無く、奥に襖とも障子ともつかない間仕切りと柱が一本あるのみであった。
公演プログラムの中で栗山は演出のコンセプトとして、このオペラは、「100年前の西洋と東洋の主従関係が明確に現れ、
その対立を捉えたドラマ」だとするとともに、舞台も意識的に荒廃したものとした旨述べている。
その趣旨は、理解できなくはないが、その流れの中でもう一工夫し、緑を加え、視覚的にも楽しめるものにできなかったであろうか。
歌手は、一部の脇役を除いて、初めて聴くという人はいなかった。蝶々夫人は、大村博美(S)が歌ったが、
ソプラノながらメゾ的な声で、昨年の「カルメン」のミカエラの場合同様音域によっては透明感が今一に感じたが、
総合的にはなかなか立派な蝶々さんであった。ピンカートンを歌った米国出身のヒュー・スミス(T)は、身体同様
声も豊かでまた大変美しい。しかし、第一幕では声の強弱の変化が激しすぎ若干の違和感があった。シャープレスは、
先日「ルル」でシェーン博士を好演したウィーン出身のクラウディオ・オテッリ(Br)が歌ったが、控えめな歌唱、演技ながら
存在感を示し、好演であった。スズキ役の中杉知子(MS)は、渋い声が役にマッチしており、やはり好演であった。脇役では、
大物を配した男声陣(ボンゾの志村文彦、ヤマドリの工藤博、神官の大森一英)がよかった。(2005.7.8)
2005.7.17:「ヴァンパイア(吸血鬼)」
「東京オペラ・プロデュース」の第74回定期公演として中劇場で原語(ドイツ語)上演された今公演は、日本初演
とのことである。筆者は、日ごろ不勉強で、このオペラの作曲者ハインリヒ・マルシュナー(1795-1861)が、「ウェーバーの
死からワグナーの出現にいたるまでの、ドイツ・ロマン派の最も重要なオペラ作家」であることを、「オペラ辞典」によって
はじめて知った。予備知識を得るため、ネット上(http://opera.stanford.edu/iu/libretti/vampyr.html)から台本(英語版)
を入手して、斜めに読んでから出かけた。なお、ワグナーも彼を高く評価していたとのことである。
主人公が、貴族でありながら、次々と女性を毒牙にかけ、最後には地獄に落ちるこのオペラのストーリーは、確かに
「ドン・ジョヴァンニ」を想起させるが、ドラマとしては、題名から来る陰惨さはあまり感じられなかった。
音楽は、幾つかの情緒的なアリアもあり、管弦楽も金管楽器が効果的に使われ、耳当りの良いものであった。
一方、今公演では主役のルートフェン卿(吸血鬼)役が途中交代するというハプニングがあった。初日の17日は、
昨年6月小劇場公演の「友人フリッツ」で司祭ダヴィッドを豊かな美声で好演した小林由樹(Br)が出演する日であったが、
最初から声の響が悪く、意外に思っていたところ、第二幕の冒頭に急性の
声帯異常のため、三塚 至と交代するとのアナウンスがあり、驚かされた。三塚は翌日Bキャストの同役として出演が
予定されていたため、オペラの進行上の問題は無かったし、はじめて聴いたが声もなかなか素晴らしかった。吸血鬼の3番目の犠牲者
になりかけるマルヴィーナ役には、ドイツ語も達者な佐々木典子(S)が歌ったが、プリマとしての貫禄、最高音の
輝きは健在ながら、中低音部の声の透明感が数年前に比べてかなり落ちたのは、残念である。ダーフェナウト卿役の大田直樹(Br)
は、渋い役柄の父親役を好演した。女声陣では、2人目の犠牲者となるエミー役を初々しい美声で歌いあげた針生美智子(S)及び第二幕
のこのオペラ唯一のコミカルな場面を豊かな声と適切な動きで仕切ったスーゼ役の村松桂子(MS)が特に好演であった。
一方、松尾 洋の演出による舞台は、やや平板な舞台装置ながら、背景の曲面の幕に場面毎の映像を投影して、森や大広間の
雰囲気をつくり出す工夫がなされた。特に、第二幕第二場の大広間の場面は、スクリーンの映像と照明が効果的で、大変美しかった。
また、第一幕冒頭の合唱の場面で、洞窟奥の真赤な「幕」から魔女と亡霊が顔だけ出して歌ったのも面白かった。
衣装も、なかなか凝ったものでよかった。
(2005.7.18記)
2005.7.29:「フィレンツェの悲劇」/「ジャンニ・スキッキ」:
(財)二期会オペラ振興会主催の貸劇場公演(オペラ劇場)として、フィレンツェ
を舞台にほぼ同時期(1917〜1918年)に初演された一幕もののオペラ
「フィレンツェの悲劇」/「ジャンニ・スキッキ」の2本立て公演が行われた。
A、Bキャストとも魅力的であったが、期待の新人臼木あいのラウレッタが聴きたくてBキャストの日を選んだ。
「フィレンツェの悲劇」:
「ジャンニスキッキ」:
2005.8.1:「ジークフリートの冒険(指輪をとりもどせ)」
永年、クラシック音楽に親しんでいると、意識して収集しなくても、かなり膨大な音源のコレクションができてしまう。LPは、10年以上前に、
マニアの知人に全て上げてしまったが、CD,LD,DVD,ビデオ(VHS,D-VHS)が邪魔になるほど部屋にあふれてきた。40歳近くになる
一人息子は、残念ながらオペラには興味を持たないので、もはや手遅れと割り切り、幼い孫娘2人を何とか「オペラ・ファン」にして、
いずれはこれらを引き取ってもらいたいというのが、筆者の密かな願いである。このためには、最初が肝心なので、機会を見て「ヘンゼルとグレ
ーテル」か「魔笛」の実演につれて行き「洗脳」しようと考えていたところ、昨年、新国立劇場が「こどものためのオペラ劇場」と銘打って、この「ジ
ークフリートの冒険」を上演し、好評に応えて今回再演(中劇場)となった。子供連れが原則であったが、チケットに余裕が出たため大人だけの入場
が可能となった機会に、下見として、今回は孫を連れずに出かけることとした。このオペラは、通常は4夜十数時間を要するR.ワーグナーの「二ーベルン
グの指輪」を気鋭のマティアス・フォン・シュテークマンが、台本(演出)を、三澤洋史が編曲(指揮)を担当して1時間強の一幕オペラに再編成し
たものである。勿論、ストーリーは「あらすじ」にあるように、圧縮という以上に変更されているが、一応まとまったものになっており、
最後には、「指輪」は、本来の管理者であるライン川の乙女達に返される。登場人物(歌手)も、ジクフリート、ブリュンヒルデ、ヴォータン、ファ
フナー、ラインの娘/ワルキューレ及び森の小鳥のみである。特徴的なのは「森の小鳥」が、進行役的に大活躍することである。また、ストーリー
には関係ないが、冒頭、愛知万博で人気を博している「トヨタ館」のロボットが登場し、トランペットを吹き、口上を述べる。
出演者は、ジクフリートの秋谷直之(T)、ブリュンヒルデの高橋知子(S)、ヴォータンの米谷毅彦(Br)、ファフナーの峰茂樹(Bs)、
小鳥の直野容子(S)という中堅の実力者を配し、皆なかなかの好演であった。直野ははじめて聴いたが、台詞もうまく適役であった。
台詞も歌も勿論日本語であったが、冒頭のワルキューレ達の重唱の場面など一部を除けば、言葉は良く聞き取れた。
演出的には、子供達にやや迎合しすぎの感もあり、ジークフリートはもう少し毅然としていて欲しいと思った場面もあったが、結構楽しい
場面が多く、子供達も十分楽しんでいたようであった。なお、ジークフリートが折れた霊剣ノートゥングを鍛えなおす場面は、装置もなか
なか良くできており実感があった。軽すぎた「トウキョウリング」の同場面よりはるかに良かった。また、火の神ローゲの衣装・踊りも見
事であった。一方、オーケストラは、弦・管とも各パート1名、合計十数名(エレクトーンも参加)だったので、重厚感不足は止むを
得なかった。総体的に見て、短いオペラながらワグナーの素晴らしいメロディーがちりばめられた楽しい作品であった。2〜3年後にまた
再演があれば、是非孫娘達に見せてやりたいと思う。また、同種の子供向けのオペラが誕生することを期待したい。(2005.8.4記)
2005.2.25:「おさん」
音楽的には、作曲者の久保は、管弦楽の扱いがうまく、このオペラでも多種の打楽器を用いるとともに、トロ
ンボーンのミュート奏法、チェロのピッチカート奏法などをうまく取り入れ、ダイナミックな響きとともに多彩
な音色を創り出した。また、第二幕冒頭の同窓会二次会での「飲み会の歌」の伴奏として、中に入れる水量を加
減して音程を変えたガラスビンを全員に叩かせたり、吹かせたりしたのは、なかなか面白く、効果的であった。
歌手は、3人のバランスも良く、好演であった。治平の妻おさんを歌った永吉伴子(S)は、オケにおされ気味の
場面もあったがなかなかの熱唱、熱演で女社長の貫禄も十分であった。治平の愛人小
春は「羅生門」で主役の真砂を好演した森川栄子(S)が歌ったが、第65回日本音楽コンクールでは今をときめ
く森麻季(2位)を抑えて優勝している実力者だけに、良く伸びる透明な美声を生かして好演であった。
治平を歌った柴山昌宣(Br)も豊かな美声が生かされ適役であった。また、字幕もあったが、大半の歌は明瞭に発音され、
聴き取りやすかった。
一方、粟國 淳の演出は、かなり抽象化された舞台であったが、適宜映像を活用してストーリーの進行を補完するとともに,
新国立劇場の舞台機構を利用した同時進行の場面処理も見事であった。(2005.2.27)
今公演は、珍しく”オペ
ラ劇場(大劇場)”での二期会主催の「貸し劇場公演」であったが、歌は原語
(ドイツ語)、台詞は日本語であったため、オペレッタのように随所に流行語
(”気合だ!気合だ!気合だ!”等)を採り入れたり、コミカルな所作も多く、
大変愉快な公演ではあった。しかし、演出的には、舞台装置と登場人物の衣装の
ミスマッチがかなり気になった。幕が上がるとそこには、無機的な事務所ビルの窓が
舞台いっぱいに立ち並んでいた。タミーノの登場にあわせてビルの一階の車庫のような部
分が開き、機関車のような形状の大蛇が現れるという奇抜な発想は悪く
はないが、この事務所のガラス窓がザラストロの神殿の一部ともなり、いつも現れ
るのには辟易した。一方、登場人物の衣装はすこぶる派手で、奇抜な諸怪獣も踊
って登場し、まさにアニメの世界であった。背景が、例えばガウディのグエル
公園のような設定であれば視覚的にもっと楽しめたような気がした。
歌手は二期会の精鋭(ザラストロ:黒木純、パパゲーノ:萩原潤、タミーノ:
望月哲也、パミーナ:井上ゆかり、弁者:多田羅迪夫、夜の女王:飯田みち代
他)の揃い踏みで高レベルのものであったが、やわらかい美声で端正に歌いあ
げた望月哲也が特に好演で印象に残った。(2005.3.6)
このオペラは、前回の「ヴァンパイア」同様、はじめてであったので、ネット上であらすじや
作曲者のツェムリンスキーについての予備知識を仕入れて出かけた。このオペラは、
オスカー・ワイルドの同名の戯曲をベースにしているが、「嫌っていた夫と自分の恋人を戦わせ、勝った
夫とその場でよりを戻すという」一見現実離れしたストーリーであるが、ツェムリンスキーの
妹マチルデが説得されて、夫である大作曲家シェーンベルクのもとに戻った後、彼女の恋人であった画家が自殺
を図ったという身近に起こった現実の事件がこのオペラの作曲にどのように影響したのだろうか、などと考えていたところ、
幕が上がるといきなり激しく、エロチックなSMの世界が現れたのには驚かされた。公演直前に、公演監督(栗林義信)の発信
で「謹告、・・・・・演出上一部倒錯的性表現が含まれます。ご理解のうえご鑑賞賜ります様お願い申し上げます。」というはがきが
来ていたことを思い出した。
演出を担当したカロリーネ・グルーバーは、プログラムの中で「マッチョマン(シモーネ)と不倫の愛人、
従順な妻、という
設定は現代人には理解しがたく、ワンパターンでつまらないものになってしまう」ので新演出にしたと述べているが、
確かに派手な衣装での激しい演技は、十分に目を引き付けはしたが、やはり、殺された恋人のそばで殺した夫の強さを賞賛して、より
を戻すという結末は、なかなか納得できず、消化不良の気持ちが後を引いた。
また、「トウキョウリング」などでも試み
られていたが、出演者自身がビデオカメラで舞台の進行を撮りまくることの意味も不明に感じた。
一方、歌手は商人シモーネを歌った小森輝彦(Br)、その妻ビアンカの林正子(S)と貴族の跡取りグイード公の羽山晃夫(T)
の3人だけであるが、いずれも脂が乗り切った実力派で声、歌唱力とも皆素晴らしかったが、天井桟敷(4FL)で聴いたことと、
オーケストラ(クリスティアン・アルミング指揮下の新日本フィル)の響がかなり重厚であったせいか、言語がやや不明瞭
に響いた。
(2005.7.31記)
今回の演出の特徴は、この2つのオペラを単に舞台が同じフィレンツエであることを越えて、あたかも、一幕、二幕の
ように演出したことである。幕が上がると「フィレンツェの悲劇」の舞台が
そのまま残っており、居残っていたシモーネとビアンカが、奥の幕を引くとさらに奥行きのある富豪ブオーゾ邸の大広間が現れ、
「ジャンニスキッキ」の序曲が始まった。すなわち、グイードとブオーゾを大胆にも同一人物として設定してしまったのである。
このオペラでラウレッタの歌う
アリア「私のお父さん」があまりにも有名で、単独に聴く機会も多いが、オペラとして通して実演に接するのは、演奏会形式
のものを含めて、今回が3回目であった。このオペラは、短編にもかかわらず登場人物が多く、よく見ていないと誰が
歌っているのかわからなくなってしまう。主題役のジャンニ・スキッキを歌った蓮井求道(Br)は、適役で歌唱、演技とも
なかなか良かった。特に遺言の場面での作り声はいかにもそれらしく、可笑しかった。ラウレッタを歌った臼木あい(S)は、
期待通り初々しい美声を聞かせてくれた。また、彼女と恋仲のリヌッチオを歌った水船桂太郎(T)も迫力のある美声を
響かせ好演であった。脇役陣にも与田朝子(MS)、筒井修平(Bs)等の実力者が核となって、なかなか良くまとまっていた。
演出的には、動きが大きく、面白い場面が多かった。特に「死体」の隠し方の所作は大いに笑いを誘った。(2005.7.31記)