2010年8月13日
                          

陳述書

湯立坂・銅御殿と周辺住民とのつながりについて

 原告: 住民 B

小石川5丁目にある湯立坂界隈は、国の重要文化財・旧磯野邸(通称「銅御殿」)や大正期の洋館が残り、近くには占春園や小石川植物園、 旧帝国大学医学部本館などがあり、都心には珍しい雰囲気の緑と文化財に溢れた景観を保持する、貴重な一帯を形成しています。野村不動産 による計画地は、ちょうどその実ん中、湯立坂脇になります。
湯立坂と銅御殿の歴史的な成り立ちは、植島暁子「湯立坂と銅御殿の敷地 について」『大谷美術館館報』第15号(平成21年6月、(財)大谷美術館発行)で詳しく論じられています(資料1)ので、私の方では省略い たします。明治維新後、武家屋敷跡がいったん畑になり、その後、明治後半期から宅地化していった一帯になります。
 湯立坂界隈は、 昭和に入る頃には、大きな敷地に和風邸宅や和洋折衷邸宅が建つ、お屋敷町になっていました。湯立坂の東側に位置する銅御殿の北東には、 東京帝国大学の初代地理学教授の山崎直方邸、その間に、三河郷友会の学生寮、北側には、東京師範学校教授だった高嶺秀夫が建てたお屋敷 がありました。旧高嶺邸は、戦後までありましたが、今はもう残っていません。山崎邸はその一部(2階建て洋館部分と和式平屋の2間)が今 でも残されています。銅御殿の向かいの湯立坂の西側(今の窪町東公園の一部にあたるところ)は、東京文理科大学の敷地で、建物が建って おりました。
 当時、市電が春日通りを走っていて湯立坂を登り切ったところに「文理大前」の停留所があった関係で、坂の下の氷川下 町や白山御殿町、久堅町に住む人たちの多くは、緑の湯立坂を上って、出かけていました。この坂が、坂下の千川筋と市電が走る春日通りと を結ぶ、日常生活に重要な基幹道路でした(それは今でもそうです)。
 戦争以前の時期に銅御殿が近所の人たちにどういう関わりがあ ったのかは、残念ながらわかりません。ただ、戦争中は、近所の子どもを集めた寒稽古の会場になっていたそうです。本田秀寿さんによれば、 当時窪町小学校4年生だった本田さんは、昭和17〜18年頃に、2年間、中学生(旧制)の知り合いに誘われて、銅御殿の書院の間の2部屋を使っ て行われた剣道の寒稽古に通ったそうです0子どもたちは10名ぐらい集まっていたそうですが、ともかく怖い先生だったそうです。
 昭和 20年5月25日の空襲は、当時の小石川区を直撃しました。資料2の赤い色の部分のように、文京区の大半が消失してしまいました。湯立坂の周辺も、 湯立坂を下った氷川下界隈も、ほとんどが焼けてしまいました。東側に隣接する三河郷友会の学生寮と山崎邸とは、銅御殿とともに被災を免れ ましたが、そのすぐ東側にあった愛知県の学生寮(愛知社)から向こうは、完全に焼け野原になってしまいました0湯立坂を下ったところにあ った高嶺邸も焼けてしまいました。また、湯立坂の西側にあった文理科大の建物は燃えてしまいました。それゆえ、この近辺では、銅御殿を含 めた湯立坂の東側のほんの一角だけが焼け残ったわけです。
 近くで焼け残った小石川植物園には、1万5千人もの人が集まってきて、被災 者暮らしをしたそうです0小石川や駒込方面にあったたくさんのお屋敷は、この空襲で灰になってしまいました。結果的に、銅御殿は貴重な歴史 的遺産として残されました。 銅御殿が焼け残ったのには理由がありました。近所の人がたくさん駆けつけてきて、みんなでバケツリレーをして 延焼を食い止めたそうです。当時バケツリレーをした地元の町会長さん(当時)の娘さんが、お父さまから聞かされた話では、次のようだっ たそうです。
 当時町会長だったお父さまは、消火の責任者として町会の他の人たちと一緒に、空襲の時に銅御殿に駆けつけたそう です。そして、長いはたきのようなもので、樹木に落ちてくる焼夷弾を振り落とす者もいたし、落とした火の塊や地面を這って攻めてくる火の玉 をバケツリレーで消す者もいて、「この屋敷だけはどうしても守らねば」と、周辺住民が力を合わせて、命がけの消火作業をしたそうです。
 お父さまは、自分がもう死ぬかと思うくらい熱風を受け、身体が熱くなっていたそうで、バケツの水を身体にかけながら、一生懸命消火作業を したそうです。そして、もう駄目かと一瞬諦めかけたそのとき、突如風向きが変わったそうで、「これぞ神風」とおもわず合掌する者もいたそう です。
 ふと我に帰り身体が熱くなる中で、わが家にとって返したところ、たどり着いてみると、既に跡形も無く自宅は焼失してしまってい たそうでした。
 お父さまは、「わが家を失って複雑な思いはあったけれど、結果的に、わが町の大切な、世界に誇れる日本建築の美しさと、 重厚さのお屋敷を住民一体で戦火から守る事が出来、後世に残す事が出来た事は、わが生涯の誇りである」と、ことあるごとに娘さんに話されて いたそうです。
 焼け残った銅御殿には、戦後すぐの頃は大谷重工業の社員や戦災にあった近所の人が住んでいたことがあったそうです (前掲植島論文)。ご近所のどなたが住まわれていたのかは、残念ながらわかりません。ちなみに、同じく焼け残った隣地の山崎邸にも、たくさん の知人や近所の人が仮住まいをされていたそうです。当時は山崎家の蔵書をみんなで自由に読んでもらっていたため、その蔵書群は「山崎文庫」 と呼ばれていたそうです。
 戦災で帯状に焼けた湯立坂の西側(文理大の東側一帯)は、昭和21年に戦災復興事業の土地区画整理事業の対象 区画に指定され、湯立坂に沿った細長い帯状の公園(窪町東公園)が作られました。公園には、桜やケヤキが植えられ、その後現在に至るまで、 地元の人たちの散歩や憩いの場として、愛され続けてきました。これによって、「湯立坂は両方の沿道から樹木が覆い被さり、視野に建物のスカ イラインが入らない「随道」型の街路景観を生み出」すことになりました(中島直人他「東京都区部の戦災復興区画整理地区の計画特性の把握---- 一般市街地での住環境向上施策としての景観計画立案に向けて-----」『住宅総合研究財団研究論文集』第35集、平成20年)。
 なお、緑にあ ふれ、文化財を擁する湯立坂は、平成20年3月に、文京区都市景観賞(ふるさと景観賞)を受賞しました。
 私たち、湯立坂周辺に住む者は、 戦後長らく、窪町東公園と銅御殿によって形成された「緑のトンネル」を通勤・通学や買い物の要路として使い、銅御殿やその大門(これも平成 17年に重要文化財に指定されています)を眺めて暮らしてきました。平成9年度に文京区まちづくり公社が作った冊子『文京区の近代建築』(エ コプラン編)でも、「みんなで選ぶ近代建築ベスト10」と「思い出シート」の集計結果で、区内52カ所の建築物のうちの一つとして、「大谷邸 の門」が選ばれています(資料3)。銅御殿自体は深い緑の奥に隠れていますが、その大門は多くの人が通勤・通学の際にいつも目にしている、 なじみ深い建造物だからです。
 ただし、平成17年に重要文化財に指定されるまで、銅御殿の建物は一般に公開されることはありませんでし た。しかし、近所の男の子たちが庭園の一角にあった竹林に竹の子を掘りに来たり、子どもたちが学校の宿題の植物採集で、庭に入れてもらったり していました。身近な里山の役割を果たしていたわけです。地元の住民も、お祭りや火の用心などで、折りにふれ、銅御殿を訪れていました。次の 文章は、15年前に小石川5丁目に引っ越してこられた方のお話です。

 はじめて大谷家の門をくぐり、銅御殿の存在を知ったのは、子供が6歳の 時の窪町町会の秋のお祭りの時でした(今から14年前)。私は御神輿に付いて町会を回り、大谷家の門をくぐり銅御殿の前で、当時の当主だった体 が少しご不自由だった年老いた大谷哲平氏の前で、豊穣のお祝い、繁栄を祈念し、景気づけに神輿を担ぎ振舞ました。その時に大人にはお神酒が振 舞われ、子供にはお菓子やジュースを頂き、そこでひとときを過ごす時間は、タイムスリップをしたほど、歴史的建造物の前では悠久の時間がゆっ くり流れるほどで、どのくらい時が経っているのか、それは見事な一本一本の木々の大きさに圧倒され、勝手口から覗く台所らしきところは、江戸 時代の舞台を見ているようでした。いまだこのような歴史的価値のある建物が残っていたのかと思うと、また私の自慢が増え、多くの方にこの興奮 を語りました。それからは大谷家の門をくぐれるかと、何度も神輿の当番を買って出たほどです。
 大谷氏との会話で印象的な思い出がありま す。一本一本の柱の由縁、施工の素晴らしさ、二度と同じものは出来ない素晴らしさ、この家を建てるのにどれだけ大変だったか、それを守るのに どれだけ心血を注いでいるか等、その思いを私たちに伝えるために「この家は私が目の黒いうちは絶対に壊さない。ず−つと守ってもらわなくては ならない。」と柱を愛おしく撫でながら話された言葉が、今でも思い出されます。
 また暮れには火の用心の見回りでお汁粉を頂戴し、古き歴 史のある街にまだ残っている素晴らしい地域住民同士の付き合いに、温かいものが込み上げて参ります。本当にこの街に住んで良かった、地域一体 となってこの街を守っていきたい、このままであってほしいと願っていました。

 今でも、毎年9月20日前後の地元の神社の祭礼の日には、子ども御輿、大人御輿のそれぞれに大門から入らせてもらって、銅御殿の主屋の前で休憩 させてもらっています。おでんやお菓子、御神酒をふるまって もらっています。子ども御輿・大人御輿、それぞれ約20〜30人ぐらいの大人や子どもが、くつろぎながら建物や庭の見学をしていっています。大人 御輿の担ぎ手の中には、銅御殿に隣接する学生寮(三河郷友会・愛知県学生寮)の学生さんも混じっています。
 以上のように、幸運にも戦災 を免れた銅御殿と、緑に包まれた湯立坂はこ地元の人に長年愛され、私たちの貴重な生活空間の一部になってきました。
 最後に、私自身と湯 立坂、銅御殿との関わりについて、お話しさせていただきます。
  私は母の生家が白山御殿町でしたので、幼い頃からこの界隈にはいろいろと馴染みがありました。母の生家のすぐ近くに嫁いだのは昭和43年のことです。
 最近なくなられた(現在の大谷美術館理事長大谷利勝氏の奥様)大谷順子さんと親しくさせていただいていて銅御殿に良く遊びにうかがわせていただ くようになりました。素敵なお庭を見ながら、皆でお茶を飲んだり、お座敷で趣味の活動をしたりしました。あの立派な建物が重要文化財に指定され た時は、みなで喜び合うとともに、母親グループの思いでの場として感無量の思いを抱きました。
 又大工職人の主人は時々銅御殿にうかがわせて頂いておりました。数年前、お願いをして銅御殿の天井裏から床下まであら ゆる部分をくまなく拝見いたしました。水平、垂直の一分の狂いのないのも確認、その感動は職人冥利につきると感謝いたしております。 また、内部造作についても、これぞ「匠の技」と言うべきものが随所にあり、何回御屋敷に伺っても感動の連続だそうでした。
 私だけではなく、 他の原告の方々も、一人ひとりが湯立坂と銅御殿に対して、それぞれの思い出や関わりを持ってきておられます。何よりも、身近なところにある重要 文化財が壊れてしまうことになりかねない危機感は強いものがあります。国民として、近所のものとして、誰かがやらねばなりません。それは、 戦争中に近所の人たちが、人手の少ないお屋敷の消火に駆けつけて、バケツリレーをやった使命感に通じるものがある、と思っております。
  戦災を免れ、後世に残されることになった貴重な銅御殿と、それをとりまく湯立坂の「緑のトンネル」は、私たち地元の者の宝であり、誇りです。 昔から地域の人たちに愛されてきた銅 御殿がビル風等で破壊されてしまわないこと、戦後数十年の時間の中で作られた湯立坂の美しい景観が、できるかぎり保全されていくことを、心か ら祈っております。