湯立坂と文化財あかがね御殿(地裁での意見陳述書
                            
 2010年(平成22年)7月13日
                            原 告 :  住民 A

 今から約4年7ヵ月ほど前の、平成17年の暮れ近くに、近所に住むBさんが「大変よ、湯立坂の樹が伐られてしまったのよ!」と顔色を変えて知らせてくれました。 二人で小走りに湯立坂に向かうと、信じられないことに、そこにあった森がなくなっており、唐突に坂の途中がぽっかりとがらんどうの空間になっていたのです。
 土肌をむき出しにした斜面には、あちらこちらに、大きな切り株が泣いているかのように白くみずみずしい姿をさらしていました。
   朝に夕に行き来してきた湯立坂の中心部分の樹木を突如破壊されて、胸がえぐられるような、言葉に言い表すこともできない喪失感でした。
 なぜこんなことになってしまったのだろう、と、私たちは大谷さんの大門の横のドアチャイムを鳴らしました。
 大谷先生と奥様にお会いして、湯立坂を豊かな緑で包んでいてくれた銅御殿の庭が野村不動産に売却され、マンションが建つ計画があることを知りました。 野村不動産は樹木はできるだけ残しますと言い、奥様、どの樹とどの樹を残しましょうか?と聞いたというのです、奥様はそれに対して、一番大事なのはユズリハで、 次は桜の樹、そして楓です、と答えられたとのことです。すると野村不動産は、ある朝、これから樹を伐りますと直前になって告げてきて、大事な樹から伐採したと いうのです。崖の上のシラカシとモチの樹以外は1本残らず伐られてしまったのです。
 まさか地域の皆にもあんなに愛されていた桜の木から真っ先に伐採されるとは。脈々と受け継がれてきた木々の命をいとも簡単に伐採するとは、建設会社がすること でしょうか?奥様はお数珠を持って涙を流しながら伐採をみておられたとのことですが、気も狂わんばかりだったことでしょう。本当は樹にすがりつきたかった、と 涙ながらにおっしゃっていました。

 銅御殿の内部を初めてみせていただいたとき、見たこともない素晴らしい材料と、独創的な美しい仕様に目を見張りました。最高の腕を持つ匠たちが、渾身の思いを 込め細部まで工夫しながら道具を1ふり1ふりして作り上げていったその魂が、時を超えて書院の空気に漂っている気がして、雷に打たれたような感覚を覚えたのを 忘れることができません。
書院の廊下のベルギー製の繊細なガラス戸は、大谷先生と奥様だけで開け閉めしてこられたとお聞きして、銅御殿を守るために今までどんなに心血を注いで来られたか、 誰にでもできることではない、こうして心を尽くして維持してこられたからこそ、100年近くたっても元の姿で伝わっているのだなあと深い敬意の念を覚えました。
そして崖の上のシラカシともちの樹だけでも守ろうと、私たちは近隣住民の運動を開始しました。

 湯立坂は、坂の中ほどで大きくゆるやかに蛇行して坂下の千川通りにつながる景色の変化の大きい趣のある坂です。両側を窪町東公園や銅御殿の斜面で囲まれた切り通 しのような坂で、公園と銅御殿の庭の木々が枝を伸ばして頭上高くに屋根のようになり、こんな雰囲気のある坂は他にはないのではないかと誇らしいような気持になり ます。
 茗荷谷駅前の温度と空気は、坂の入り口の銅御殿のところから変わり、空気はすがすがしく、夏は洞窟に入ったように涼しく、汗だくの体がすーっと冷やされて生き返った ような気持になり、冬はさんさんと日が差し込んで温室のようで、ここを通るのが本当に楽しみでした。土と木と葉や草の香りがむっとたちのぼり、木漏れ日が幻想的に 刻一刻と変化し、別天地にいるような錯覚を覚えるほどでした。春になると鶯が鳴き、そして3月になると湯立坂の大きな桜の木が春を知らせてくれ、その蕾の膨らみを愛で、 花が咲くのを心待ちにし、そして満開の花の下、桜吹雪の中を登下校する子供や通勤する方たちはそれはそれは春を体全体で満喫したものです。季節を感じる住環境の 素晴らしさは何にも代えがたく、子どもたちには、学校で習う教材より、生きた教材で、新緑の芽吹き、梅雨時期のカタツムリやナメクジが歩いた道筋を眺め、夏には蝉の 羽化、チョロチョロと走って逃げるトカゲ、紅葉のもみじに銀杏、銀杏の臭いに道いっぱいの落葉のじゅうたん。
 伐採されてしまった銅御殿の庭の森には、鳥のさえずりが響き、コゲラ、メジロ、ジョウビタキ、鶯、などのさまざまな鳥・虫などたくさんの生き物が生息し、窪町東公園 や占春園、小石川植物園、といった周辺の緑地帯を行き来していました。
 たくさんの方たちが、コンクリートジャングルの都会の中で、このみずみずしいオアシスのような坂を通ってそれぞれに豊かな気分を味わい、幸せを感じ、喜びを感じてい るんだなあと思うと、ここはまさに地域の皆にとってかけがえのない宝のような場所なのだとつくづく思うのです。

 湯立坂の名は、今は暗渠になっている坂下の千川が、昔はたびたび大水であふれ、対岸の簸川神社にお参りに渡ることができなかった時、氏子さんたちが湯立坂で湯花を 奉ったという、そういった古事からついた名前とのことですから、古人の信仰と結びついた神聖な場所だったようです。
 窪町東公園一帯は、水戸光圀の弟松平頼元が大名屋敷を構えたところで、屋敷内の庭園の占春園は、江戸の3大名園の一つと言われたそうです。 占春園は今も湧水の池やうっそうとした緑が広がり、筑波大学付属小学校の自然観察園にもなっており、大名屋敷庭園としての風格を持ちながら、都会の中とは思えない 閑静で野趣ある空間になっています。カワセミやコサギも見ることができるのです。
 占春園には日本の師範教育の振興に大きな功績を残し、柔道の創始者として世界的な嘉納治五郎の銅像もあり、一角に明治期に東京高等師範学校が設立され、戦後は東京 教育大学になり、更に筑波大学に改組されたように、教育学でも特筆すべき場所となっています。
 銅御殿の隣、湯立坂を見下ろす高台には近代地理学の祖と言われる山崎直方、日本ユニセフや桜蔭学園創設者の一人、山崎光(みつ)の居宅だった大正期の洋館・山崎邸 があります。山崎邸の隣には、理化学研究所設立者の一人、高嶺譲吉、双葉学園を創立した高嶺信子が住んでいました。
 まさに日本の近代教育事業に多くの人材を輩出してきた特別な場所なのです。 さらに、湯立坂を下ったところには、東京大学付属の小石川植物園内に、国の重要文化財の旧東京医学校校舎があります。
銅御殿と旧東京医学校校舎、文京区の6つの重要文化財のうちの2つがこんなに至近距離にあるという信じられないような地域です。
 面積としてはそんなに広くないこの一帯に、文化的歴史的に、他にはない数段高いものがぎっしりと詰まる日本でも類をみない場所なのです。
 銅御殿の施主、磯野氏はなぜ銅御殿をこの湯立坂に建てたのでしょうか。
 磯野氏は、山林王として山や材木を扱っていたので、自然を見る目は確かなはずです。
 たくさんの素晴らしい候補地から湯立坂を選んだのは、景観として名園の占春園が隣にあり、ハイレベルな教育ゾーンであること、湯立坂の高台から眺める眺望の素晴 らしさといった、まさに湯立坂独自の歴史的文化的背景と自然の地形の特質に惹きつけられたからこそここにお金と時間に糸目をつけない邸宅の建造を決めたに違いあ りません。
 そのような磯野氏の先見性と、湯立坂にふさわしいものをという磯野氏の心に応えた弱冠20歳の棟梁がいたからこそ、銅御殿ができたのです。 この環境がなければ銅御殿はこの世に誕生しなかったといえるでしょう。

 だからこそこの環境を壊してはいけないのです。
湯立坂は文京区の景観賞にも選ばれています。文京区として大切な景観なんだとはっきり宣言したわけですから、ぜひ選定された時の形で守り遺していっていただかないと いけません。
 策定されようとしている文京区の『新たなる基本構想』のタイトルは、「歴史と文化と緑に育まれた、みんなが主役のまち」「文の京(みやこ)」となっており、 将来都市像としても、「歴史と文化と緑に育まれた、みんなが主役のまち」を掲げて「これまで先人たちによって、脈々と受け継がれ、区民の誇りの源泉ともい える歴史・文化・緑を今後も引き続き大切に守り、生かしながら云々・・・」と言っています。
 歴史と文化と緑、の全てがある湯立坂はまさに文京区のアイデンティティと言えるところなのですから、素晴らしい内容の文京区の文化財保護条例を駆使し、 法律を駆使し、その理念を示していただきたいと思います。
 ここを守らずして、文京区は一体何を守ろうというのでしょうか。
 文化財と一体となった湯立坂の景観を守っていかなければ、文京区とはいえないのではないでしょうか。
 日常生活の中に、緑と坂と史跡を行き来することができることこそ願わしい幸せです。

 湯立坂の景観は大きく損なわれようとしていますが、今ならまだ湯立坂の景観を取り戻すことができると望みを持っています。
 どうか未来に誇れる叡智あるご判断をしていただきますよう、心からお願い申し上げます。

以上