第14回《お結びの会》:講演会

1. 日時:2012年2月19日(土)、10:00〜12:00
2.会場:文京区民センター 3-D 会議室
3.参加者:23名
4.講師:建築家(ドイツ連邦共和国・バイエルン州建築家協会)水島 信 氏
5.公演題目:ドイツ流街づくりの薦め〜快適に住む街を創るには

                            

司会 杜史をはぐくむ会・湯立坂 並木さん

6.講演要旨

日本の都市政策は、住民の快適に住む環境を保全するということよりも、企業営利を優先した建設促進が推進されているという、都市計画の最も基本的な部分 をほとんど無視してなされていることを、今まで機会ある毎に説明をしてきました。それはドイツに住んで、ドイツの憲法で保障されている「何人も人間の尊 厳に値する生活をする権利があり、それを担保する義務が行政にある」という市民の住む権利を守るドイツとは日本の事情が全く逆であるということに気付い たからです。ガスタンクの周辺や高圧送電線の下に住宅が並び、伝統的な街並みに“近代建築”が割り込み、傾斜地の緑を削り取りまたは低層住宅地に高層の マンションが周辺の住民の住む権利を無視して建設されるという、街区の景観と纏まりや隣人の迷惑を無視した開発と建設は日本の街の中にすぐに見出すこと ができます。言ってみればこれらの街づくりは「人権蹂躙」の都市政策の結果です。

「何故日本とドイツの都市は違うのか」とい う問いかけは、このような日本の事情を憂えてなされたと理解できます。日本とドイツの都市の違いとその違いの原因を分析すると、これも今まで説明したこと ですが、西洋風建築の質の悪さ、住民の共同体に対する意識の低さ、行政の都市政策の怠慢さが挙げられます。この三要素は都市計画の基本的政策である「土地 利用」に対しての計画性を持たない制度の「用途地域制」に具体的に表現されています。例えば、ガスタンクが先に在りそれを承知で住宅開発なされたという、あ たかも住宅開発に責任転嫁をする言い訳がなされますが、これが墓穴を掘っていることを証明します。なぜなら、危険地帯には開発を規制する土地利用指定を先 取りしてなされていればこのような問題は発生しないからです。この先取りこそが住民の方を向いた行政の任務なのです。
土地利用政策の根源は基本的人権を尊重する民主主義にあります。「高層ビルが建設されるとその同じ区画に同じような高層ビルが建てられない」と日本の建築家 から伺ったことがありますが、これなどは権利の不平等を端的に表す土地利用です。隣人と同等な権利を持てないという非民主的状況がここには第一に存在します。 それから、高層ビルを建設できない住民は、隣の高層ビルの影になり快適に住むという権利が保護されていないという差別が平然と法令化されているのが第二の問 題です。そして極めつけはそれらの基本的人権が経済価値に置き換えられて、金銭の支払いに帰結されてしまうという民主主義の後進性です。これでは、共同体の 纏まりのルールと公共の利益が無視されて自分勝手な建設が許されても仕方がないことでしょう。
ドイツの街並みを見て、美しい街並みをつくるのが街づくりの目的と短絡的に考える方たち、特に、街づくりに目覚めた住民と観光目的のために街の活性化を図り たい行政者の中に多くいらっしゃいます。しかし、これは大きな勘違いです。ドイツでは建物の高さを揃えて、街並みに統一性があって美しいと評価されますが、 建物の高さを揃えているのは街並みを揃えようとした意図で始まったことではないのではないかと思われます。ドイツでは四階建て以上の建物にはエレベーター設置 が義務付けられているように、階段で四階以上を上るのは不便です。個人的経験で言えば六階までが限界です。昔の建物の高さはほとんどがこの高さで、この体力の 限界に合わせて決められていたのではないか、高さを揃えるのではなく揃ったのではないかと考えています。同様に、プロシア壁面線規定の伝統で壁面を揃えるのは 街区景観を整えるためと思われていますが、壁面線を規定するのは交通用地を最小面積での最大効率を確保する基本的手法ですから、幅員の広い道路の途中で壁面線 から飛び出している建物が交通障害を生んでいるという状況を考えれば、これも景観整備以外の根拠があるのではないかと思えます。日本から見たこのような「理想 的ドイツ都市計画手法」の勘違いは、ドイツには「建設の自由がない」「計画のないところに開発は無い」という誤解と「住民参加」への幻想に端的に現れています。
設計には、施主の予算を含めた要望から敷地条件まで種々のハードルは常に存在します。都市計画規制も当然その中に含まれます。これらの設計条件に不自由さを感 じる建築家は、ドイツではその能力を疑問視されます。共同社会で生活するにはそれなりの法的規制を順守する義務が伴い、その義務が個人の自由の権利に優先します。 自由の範囲は個人の権利から社会的義務を差し引いた僅かな範囲でしかないのです。ですから、建築家としての任務は、様々な制約をその量と難易度をあるがままに 容認し、それらの条件を超える設計をすることです。ドイツでは管轄区全域に土地利用を指定する図面を作成することが自治体に義務付けられています。この図は現 状と計画の土地利用を含みますから、一種の計画図といえる性格のもので、建設許可はこの図面に指定された土地利用の条件に適合しなければなりませんから、計画 のない所に建設は無いのは当たり前に正しいことです。しかし、土地利用(計画)図が存在するということはインフラが整備されている、又はされるというということ ですから「都市施設がないところに建設はない」が正しい表現です。
ドイツの制度を規範とした時に、行政側にも従来の街づくりに不満を持っていた住民にも、それまでの日本にはない民主主義的な手法で、最も文化的な香りのする制度 に感じられたのではないでしょうか。「住民の自主的」とか「住民主導」という言葉は街づくりに目覚めた住民にとって誘惑の大きいもので、それ故に行政は多大な期待感 を持っていますが、都市計画の現場ではありえないものです。何故なら、計画策定の過程で住民に問うというのは大いに奨励されるものですが、主導権とその施行の責 任とそれに伴う義務は行政にあるという基本的理由によります。住民に街づくりの責任を負わせるのは行政の職務怠慢です。都市計画作成はひとえに行政の任務であり、 住民にはその作成された計画案に意見を述べる権利があるのです。住民の意見に根拠があればそれを計画に反映させ、計画案の変更が行政に義務づけられています。 これがドイツでの役割分担です。すなわち、基本的に住民は、行政側の専門家が持っている計画に必要な情報と計画作成する知識と技術を持ち合わせていませんし、 情報公開されているとしても、その情報を理解して計画に反映するためには専門的能力が必要ですから、計画案を主導的に作成することはしません。ドイツの都市計画 を理解するには、素人の役割と専門家の職能という基本を了解する必要があるようです。
「何をすべきか」という答えは「ドイツ流街づくりの薦め」です。日本の都市問題の三つの原因である、西洋風建物の欠陥、民主主義の欠陥と都市政策の欠陥を矯正するには ドイツ都市計画制度の基本である「建設指針計画」を日本式に翻訳することだと考えています。塗紙計画図と揶揄される用途地域図を、その本来の目的である「土地利 用計画図」にすることと、それを基盤として公共の利益に影響する開発計画は総て「建設履行計画図」を作成して、住民の監査を経て、初めて建設されるという制度を確立 することで、日本の都市空間は住民のための快適な生活空間に変化していくと確信しています。「ドイツだからできるので、日本ではそう簡単では無い、難しい」とい う反応があるでしょう。これは「出来ない、難しい」をやらないための言い訳か、言い逃れに聞こえます。どうしてもやらなければならない状況であれば、難しいからと 言ってその対処の回避は許されません。難しいと言って解決を先延ばしするのか、難しくとも解決するのかは、やらなくてはいけないと思うのか思わないのかの僅か な差です。誰にも経験はあるでしょうが、試験勉強の時に難問に出会ってもそれからは逃げ出せず、良い点を取るという目標のために参考書を見るか、恥を忍んで友達に 聞くか、先生に問うてそれを解く努力をした過去を思い出して下さい。千里の道も一歩からです。